お知らせ・つらつらノート

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お知らせ・つらつらノート詳細

2017/05/02
【つらつらノート】 尊厳、ということ。

起きて、メシを食って、仕事をし、人と会話を交わし、遊び、笑い、時に泣き、そして眠る。
この生活というものの、どれがなくなってしまっても、人は生きてゆけないだろう。肉体は衰え、精神も病んでゆくだろう。
生きるということは、この上にある。
だが然しまた、この生活というものだけでは、生きてゆけないような気もする。肉体も精神とも健康的であっても、どこか、言うに云えない虚がある感じがする。
まるで昼間だけの人生のようではないか。
この生活というものだけでは生きてゆけない気がするのは、それだけでは、死んでゆけないと思うからだ。
この生活というものだけしかなかったら、恐らく死というものを畏怖し続け、拒み続けるだけだろう。
決定的絶対的にやってくる死というものから逃げ回り、自分という存在の尊厳を失いかねないような気がする。
やっぱり、人生が終わりに近づいたら、素直に受け入れるかのように静かに死にたいという願望がある。
そういう生き方が大切なように思える。
死んでゆける人生とは如何なるものであろうか。

 

京都の有名なお寺の館長さんで、九十いくつという年齢まで勤めておられたお坊さんが、「死ぬことなんて考えない」と言っていたそうです。 確かに、その方が健全だと思われます。「ナンデ、生きているのに死ぬことなんて考えねばならんのか。そんな勿体ないことをしたらアカン」と。
聞くところによると、長年修行を積んだお坊さんでも、いざ自分が死期を覚悟せねばならない時になると、乱れる人が少なくないとか。
いくらお坊さんでも、それが普通だと思います。それでは、「死ぬことなんて考えない」というのは、もしかしたら、もう死ぬことをさんざん考え、考えに考えて考え尽くしてしまった故の後に、ようやく辿り着いた心境から出た言葉かも知れない。というふうにも思われます。もう考えてみようとも思わないところまで行って、いっそ生死などどうでもよいという心境までになって、それこそ無心に今日一日を生きることに専念できる境地を得たのではないだろうか。

 

実際、死を考えても仕方のないことなのですが、だからといって、なかなか考えないこともできない。年齢を重ね、それが中盤を越えて終盤に近づくころになれば、心の隅に死の影が潜むようになるのは自然なことだと思います。死は、得体の知れない恐ろしいものでもあり、ものすごく大きな虚無でもあるように思われます。死は、すべてを失うことだからです。
100億円の財産を持っていたとしても、失わなければならない。100億円あれば、ものすごく嬉々とした人生を送れるのに、死には、まったく役立たない。例え財産があっても、財産がなくても、逆に借金が100億円あっても、死は平等にすべてを失なわせる力を持っている。
死はそれほどに、私たちの価値観を易々と木っ端微塵にしてしまう力で、私たちを威圧するのです。
だからやっぱり、考えても仕方のないことだから考えないようにしようと思っても、考えずにはいられないのだと思います。考えなくても済むようになるには、100億円でも、一兆円でも、ポイッと捨てられるような心境にならなくてはならない。最後には、持っているもので勝負ができないのです。勝負という前に、勝つことなどできない。負けではないにしても、すべてを奪われてしまうのです。もしも勝ちたいのなら、負け惜しみでなく、奪われてしまっても平気な顔で飄々としていることしかないのではないか。勝ち負けなど問題ではない、と達観して、超然としていることかも知れない。

 

人生が終わりに近づいても、自分という存在の尊厳を失うことなく、素直に受け入れるかのように静かに死にたいという願望がある。
健全な状態でその願望を果たすには、自から自分の中へ死を招き入れて、死を超える方便を考えるしかないのでは、と思えるのです。

 

 


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