お知らせ・つらつらノート

  1. ホーム
  2. お知らせ・つらつらノート

お知らせ・つらつらノート詳細

2017/10/14
【つらつらノート】 「色即是空」の話

先日、法事があり、久し振りに親戚の人たちと顔を合わせました。
お経が済んで、お坊さんの話があり、その話が法要の後の宴席でも話題になって、チョット面白かったものなので、ここにも書いてみたいと思った次第です。

 

お坊さんは、先ず、「色即是空」 という、般若心経に出てくる有名な言葉の話からはじめました。
色即是空とは、この世にあるいろいろなもののすべては本来 「空」 であるという意味の言葉で、いろいろなものとは、人間も動物もあらゆる物質もこの世の無常という法則のなかではすべて実体がない 「空」 であり、どれもがすべて仮の形、仮の姿を現しているものだという意味です、と話されました。ですから、自分と思っているような自分というものも、本当は無いのであって、自分というのはひとつの仮の姿をしているにすぎないものだ、と言うのです。
それから、ものの例えというふうに、こんなことを話し始めました。
自分というものが存在しないとしたら、社会というものも、国家というものも存在しないだろう、と。 あらゆるものは存在しないことになる、と言います。何しろ、色即是空なのですから。社会や国家だけでなく、家族も、愛も、恋も然り。結婚なんていうのも然りなのです。
すべては有るように思っているだけで、本当は実在しない仮のものだ。 有るように思っていることが、実際に有るように、我々の思いで感じを作っているだけで、そういう対象が実際に有る訳ではない、と。
ここでお坊さんは、今度は 「空即是色」 という言葉を持ち出して、「色即是空」 を反対の角度から見てみるとどうなるか、ということを話し始めました。
空がすべて、と表しているので、当然、この自分も、空という全体の一部分であって、空が自分という感じを作っているだけ、ということであり、私心もまた空なので、この自分という存在は空というものの一時的な仮の姿だと言うのでした。空とは、このすべてを統括した全体を動かしているものであり、その全体のために、仮にこの地球という星が必要であり、そこに生まれて生きる者のために集団という社会が必要であり、仮に国家が必要であり、仮に家族が必要であり、そこに仮の自分という意識も必要であり、それは私たちに、仮に父として、仮に母として、仮に子供として、個々の役割を持って生きている自分という存在があるのですが、こうして各々みなさんがそんなふうに知らずに納得して此処に居られるだけなのです、と言われるのです。
したがって、愛も恋も、仮にそう思っているだけで、結婚も仮に結婚と呼んで、男と女をひとつにして子供を生み、家族、社会、国家という全体性の為に認識させられているということになる、と。 そうさせているのは、或いはそのようにしているのは、我々の意識であるように思っているけれども、実は我々の意識がさせているのではなく、空という、この宇宙を包んでいる渾沌とした力の働き、そうした全体的普遍的無意識の働きが、我々の集団的無意識に働きかけて、させているということになるのですよ、と仰いました。これはちょっとユングの心理学と共通した考え方で面白いと思いましたが、そこはお寺のお坊さん、すかさず、つまり全体的普遍的無意識である空とは、仏なのです。と言葉をつなぎました。
しかしそう言いながら、なんだか言い切れないような、ホンの少し不甲斐なさそうな顔をしていましたが、「仏なんていうのも空なんです」、と、思い切って言ってしまいたいような感じが漂っているようにも見えました。何しろ、空即是色、色相是空なのですから。
勉学が好きそうな、二代目のお坊さんでしたが、何かと現実と理想に板挟まって苦労しているような様子が、なんとなく窺えたものでした。

 

まぁ最後の方はお坊さんらしく仏という言葉も出てきてそれなりに話を終わらせましたが、「色即是空、空即是色」 という教えをこのように説明されたお坊さんははじめてでした。
この世の真理に想いを深めれば尤もなお話なのかと思うのですが、自分も仮なら相手も仮だとか、愛やら恋やらそんなものは本当はないとか、結婚も社会のための仮のもの、マボロシのようなものだとか、平気で仰っていたのですが、実はこの法事の集まりの中には、最近結婚したばかりのカップルも出席していて、先だっての結婚式の時には同じ顔ぶれの親戚の人たちに「オメデトウ」と祝福されていたのですが、この後の宴席では、みんなにさんざん冷やかされる事になってしまいました。お酒がまわった伯父さん伯母さんたちの中には、自分たちの結婚を省みるように、「恋愛や結婚なんていうのはホントーに夢かマボロシのようなものだ。現実はもっとキビシイぞぉー」とか、「いつの間にかさめてしまうものなのよねぇ」 などと、説教とも投げやりともつかない口調で話していたりする始末でありました。
いつもは何かと退屈な法事が、今回は、思いがけずもちょっと面白いものでした。

 

 


PAGE TOP