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2018/03/24
【つらつらノート】 心のフィルター  ( 心の傷みに対処する、身体の働き )

人間の構造には、自身の身を守るための機構があります。
痛みもそのひとつです。しかし、その痛みの度合いのスレスレなところで防御することができず、身を守ることができない場合もあります。
身を守ることができなければ、当然、体も心も、傷を負ってしまいます。
今回は、心の傷の話です。

 

人は、体を傷つけられれば、痛みを感じます。もしも、打たれたり、蹴られたり、何かにはさまれたりして、身体が危害をこうむっているのに、それを止めることができなかったら、打たれ続けてそのうちに気を失い、死に至ることもあるでしょう。身体の損傷に対して痛みの感覚を感じるからこそ、痛い思いをしたくないからこそ、相手をよけたり、逃げることによって災難を回避し、自分という固体の存続を守ることができる訳です。
身体に悪影響を与える危険な力は、そのようにして回避できます。しかし、人は言葉や見るものによっても、痛い思いをします。心身に対してそれが強烈な場合、本当に胸や頭に刺されるような痛みや、激しい頭痛や嘔吐を覚えることもあります。視覚や聴覚といった感覚の神経が、神経性の痛みや不快を連鎖させるのです。耳に聞こえる言葉や、眼に見えるものによっても、物理的肉体的な暴力と同じように、人はとても傷つき、消耗するものなのです。
しかし、耳に聞こえるものも、眼に見えるものも、耳を塞いだり、眼を閉じたりすれば、少なくともその時点から回避することもできます。聞いてしまった言葉、見てしまったものはどうすることができなくても、耳や眼を塞いでその場から逃げられれば、それ以上の被害は防げます。

 

さて、そうやって耳を塞ぐことができる状況であれば、対応の仕方もあるのですが、どうにもできない状況というのもあります。つまり、大きな声で言われたりすれば、耳を塞いだり、逃げることもできますが、非常に聞き取りにくい小さな声であるとか、ヒソヒソ話のように、いったい誰に向けて言っているのか判然としない状況で耳に入ってくるものであると、どうしようもないというか、逃げることもできない訳です。できないというよりも、耳を塞ごうとも思わない訳です。 逆に、こともあろうに、そのヒソヒソ話に無意識的に注意が向いてしまって、その場から離れられず、耳にどんどん入ってくる、という次第になってしまったりするのです。その時にはその言葉が自分を傷つけているものとは判別できなくても、耳にはどんどん入ってきて、脳に送られている・・・。
聴覚というのは、例え眠っていても、しっかり働いている場合があるということが、近年の脳科学の実験などで解ってきていることのようで、 耳に入ってくる情報は、例え本人が聞いているようには思えない状況においても、脳にはちゃんと届いているケースがあるということです。それは、その人の意識の奥のところで注意が向いている、脳が関心を持って聴いている、ということなのかも知れません。

 

思うに、心には外部からの危険な情報を処理する「網のようなフィルター」があって、視覚や聴覚といった感覚神経を通して体の内部に入ってくる情報の中に自分を傷つける因子があると、そのフィルターに引っかかり、そうすると痛みや嫌悪感の信号となって脳の制御装置が「遠ざかれ」 という思いを発っすることで、自己の心身を守る手段を取ろうとするのではないか。 そうやって、中傷・誹謗の因子の侵入を監視し、危険な因子の侵入を防いでいるフィルターのような装置があるのではなかろうかと思われます。しかし、その因子が五感の自覚レベルよりも少し小さかったりすると、例えば声が非常に小さかったり、眼に見えるものでも瞬間的で、些細なものであったりすると、フィルターに引っかからずに素通りしてしまって、身を守る手段を取ろうとすることもなく、いつの間にか中傷の因子を取り込んでしまう。 取り込まれた中傷の因子は、自覚のないままに脳神経の奥深くに積もり、やがてそれが積もりに積もって、意識下の心の領域を傷だらけにしてしまうのでしょう。ある程度の大きさになった頃になって、傷みが自覚に上ってくる。

 

ある程度大きいものよりも、反って小さいものの方が見逃されやすいのです。感じるものが小さければ、まぁこのくらいはガマンできるだろうとか、大丈夫だろうとか、さして気に止めないで我慢してしまう場合がある。しかしそういう性質のものだからこそ、心の奥深くに入りやすく、そして原因の痕跡としても見つけ難く、後から処理することが困難なのです。何か気に障る事を言われているようでも、「 まぁ気にしない、気にしない。 」 というように切り替えられるのは、まだ心に余裕と余力があるうちです。 心にエネルギーがあって、神経が疲弊していないうちは、転換がきいて、気にしないでも済みますし、不要なものを排出する(忘れられる)力も持っている。しかし、心身に疲れが溜まっていたり、煩わしい事が重なっているような時期には、心の余裕も余力も乏しくなっていがちなので、そういう時に悪意のあるヒソヒソ話とか、逃げられない状況で神経に障ることに耐え過ぎてしまうと、心はその時からゆっくりと深く病んでいってしまうのではないかと思うのです。
ヒソヒソ話を聞いていると、なんとなくイヤーナ感じがするのも、心の警告の反応なのかも知れません。

 

このようなことを考えてゆくと、心の働きというのは複雑なものですから、本人がもうどうしようもない程に追い詰められて、 「 もうゼッタイに聞きたくない ! 」 という強い意識を持つに至ってしまった場合には、心の無意識の働きで聴覚を遮断するということもあり得るのではないかと思われます。何か、本人が非常に傷つくようなことを言われ続け、それに耐えに耐えているうちに、いつの間にか、あれもこれも聞きたくない、という状況に陥ってしまったら、固体の存続を守るために、無意識的な自己防衛本能が働いて、心は聴覚を閉ざすかも知れない。心はあらゆる感覚に繫がっているので、それは聴覚に限らず、他の感覚に起こっても不思議ではないでしょうが、しかしそれは本人が意識してしている事ではないし、心の無意識の働きなので、本人にも理解できない、周りの人間にもなかなか理解できない困った事態になってしまうのです。

原因のはっきりしない突発性の難聴や急性の弱視などのなかには、もしかしたらそのような背景があるケースもあるかも知れない、と思うことがあります。

 

 


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