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2018/05/26
【つらつらノート】 駄目ということについて

今の自分を駄目だと思っているとしたら、それは、この世界の摂理( 自然界を支配している理法 )から遠く離れている。
人間の真価は、人生の良い時期よりも、寧ろ駄目なように見える時期で明かされる。
その時期が大切で肝腎なのだから、駄目である事は、本当は駄目ではない事なのである。
事実は駄目であっても、真実は違うところにあり、そういう状況の時期こそ人生の大事処なのだ。
だから事実はそうであっても、現在の駄目である自分を簡単に認めてはいけない。
駄目である事実だけを、そのまま自分の懐に入れてしまえるくらいの度量が必要である。
むしろ、マイナスを抱えている事こそをプラスの要因と受け取って、密かに胸を張って肯定していることだ。
自分を駄目だと思っている自分という存在は、一体何との比較によって駄目であるのかを考えなければならない。

 

自然界では、本当に駄目なもの、必要のなくなったものは淘汰されてゆきます。
この人生の本質は、自らの存在によって生じているのだから、自らの存在がこの世界(環境)にとって必要であれば、それは環境が自らの存在を許容している証左であって、つまり淘汰を免れているのですから、駄目という事実はないことになる。
何事も、この現実をして、今日現在に生きて存続しているものであれば、たとえ事実的に駄目な状況にあったとしても、それは一過程の出来事に過ぎず、プロセスでしかない。そのプロセスを結果として受け入れてしまうことで間違いを犯せば、現実にそれが結果となって、本当に駄目になってしまうのです。

 

私が確信的にこのようなことを言えるのは、この人間という存在が、宇宙をも内包するような精神のダイナミックさや、生命という不思議な働きを持つ身体の、神懸かりとも壮大とも言える精巧さや、そして何故この世界に出現しているのかという経緯の答え様がない不可解さに、謂わば驚愕しているからに他ならないからです。

人間という存在について、いろいろな方面から学んでいくと、この人間という存在ほど、摩訶不可思議な存在はありません。

その人体構造は、宇宙にも通じる神秘的な不可解性を持っていて、その姿は、何よりも美しく、微笑ましいものでありながら、その行動と心の思惑は、もっとも美しいところからもっとも醜いところまでもが反映されていて、或る意味、、美しくあっても醜くあっても、優良であっても駄目であっても、どちらでも当たり前でいられるという不可解な存在であって、しかしその両方が一個の人間の中に共存している存在のダイナミックさ、ダイナミックレンジの広さを思うと、簡単に結論をつけられる存在では決してないということになる。 こんなに精巧で巧みな構造を持った存在が、簡単に駄目になる筈がないのではないかと思えてくるのです。 
駄目だと思っているのは、それも誰よりも本気で駄目だと思っているのは、実際は他ならぬ自分であるというのが決定的なのであって、つまりは、その自分が、自らが持っている精巧で英知に満ちた存在の価値を、実はあまりに解っていないだけなのではないか。 いくら他人に言われようと、自分は駄目じゃないと思えれば、本当に駄目になる訳がないのではなかろうか、と思えてくるのです。
しかしその事実に気づくには、「 自分は駄目だ 」というところまで行かないとなかなか気づけない、というのが、この世界の摂理であるようです。

 

 


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