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2019/03/23
【つらつらノート】 想いを支える力の来源 (その1)


                               ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。 

 

 

 井上靖氏、晩年の小説 『孔子』 の中で、孔子と弟子四人が或る国の皇帝を訪ねてゆく旅の途中、戦いに敗れた兵士の集団によって荷物一式を全部奪われてしまう一節があります。食べるものも着るものも寝具も奪われ、通りすがりの村落はどこも無人になっていて、食料と呼べる食べ物が何も手に入らない状態に陥ってしまいます。そうやって半ば飢え、朦朧とした足取りで移動し、辛抱に辛抱を重ねて旅を続けて、何日も経った日のこと。空腹と絶望感に歩き疲れて、全員が、もう一歩も動けなくなってしまいます。いくら修行を重ねていても、そこは生身の人間、苦しさにも限度があります。ある時、弟子の中では一番上の兄弟子が、ふらふらと孔子の前に立ちはだかります。孔子は、木に凭れて静かに琴を爪弾いている。兄弟子は孔子に向かって、 「君子も窮することがありますか  ?  」 と、まるで怒っているように、投げつけるように言いました。皆がこうして飢えて死んでゆくのであれば、一体、今まで我々は何をしていたことになるのか、と憤慨している様子です。そして何よりも、孔子ともあろう御方が、飢えておられるということが、哀しくもあり、腹立たしくもあったのでしょう。黙っている孔子を見て、兄弟子は、「君子も、窮することがありますか」とまた言いました。孔子は、琴を傍らにおくと、眼の前に立っている弟子に顔を向けて、

 

「君子、固 ( もと ) より窮す」 力の入った声でそう言い、追いかけるように、「小人、窮すれば、斯に濫る ( ここに乱る ) 」 と厳かに言い放ちます。

 

これを聞いた件の弟子は、暫くは立ったまま茫然自失となっていましたが、深々と孔子の方へ頭を下げると、そのまま大きく体を捻るように、何も持たぬ両手、両腕を大きく水平に広げ、それからゆっくりと体を音律にでものせるようにして動かし始めました。
飢えようが、死に瀕していようが、毅然として、己の品格を微塵も乱れさせない孔子の姿に、美しいものを間近に見た感動を覚え、嬉しくなってしまったのでしょう。そして思わず踊りだしてしまった。固唾を呑んで兄弟子の様子を窺っていた他の弟子たちも、この言葉に感動してしまいます。

 


 この孔子の言葉の奥にある想いとは、一体どのようなものだったのでしょう。

 

「天命を知り、その天に自分の命をかけて生きる者は、飢えたり死にそうになって窮地に陥ることは元より覚悟している。たとえ途上で死んでしまっても、天命をかけて生きてきた人生を悔いることはない。何があっても、天に命をかけた自分は変わらない。乱れない。」

 

果たしてあの言葉を言った時の彼の想いとはこういう感じだったのか、わかりませんが、しかしもっと真髄にある、彼の言葉の根底にある想いとはどのような想いであったのか。その想いは、一体何によって支えられていたのか、というところが不思議に思える訳です。別に孔子でなくても、「よくそこまでできるな」と感嘆するような事をやり遂げた人間の、その想い(或いは、信念)を支えていたものは何だったのか、と思う訳です。
確かに、言葉というものが想いを支えていると言っても過言ではありません。言葉や経験が支えているとも言える。が、しかし、その人の経験や言葉だけが支えているというふうにも思えないのです。
私は、孔子の儒教についてはあまり関心がある方ではないのですが、終生無冠の一学者としてこの人が生きた生き方には興味を覚えます。小説を読んでいて、このような場面に出会うと、一体何がこの人にこのような言葉を使わせたのか、一体何がその想いを培わせ、彼の人生の足跡を辿るに至ったのか、知りたくなります。 ( 晩年に至った井上氏が、孔子を通してこの小説で著したかった想いとは、果たしてどのようなものであったのか、という想いと重なります。 )

 

 

 


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