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2019/06/08
【つらつらノート】 想いを支える力の来源 (その3)

 

                              ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

 

井上氏の 『孔子』 の最後では、苦労して訪ねていった楚の国の皇帝・昭王が、孔子たちが到着して間もなく死んでしまいます。弟子たちは途方に暮れて、孔子が続ける沈黙に耐え続けます。何しろ四十年もの長い間、策を巡らし夢に見ていた和平の礎となる昭王との謁見が、あろうことか自分たちが訪ねてきたのを待つように、昭王その人の他界により、実に呆気なく雲散霧消してしまったのです。例えようもない衝撃であったのは想像に難くない。しかし、昭王の棺を見送った夜、弟子たちを集めて孔子が言った言葉は、すべてを水に流したように明るい声で 「故国へ帰ろう」 というものでした。 普通、すこしでも私利私欲の欲情があったら、弟子を前にして天に説教でもするところでしょうが、ここでも乱れることなく、天に命をかけている証しのように、天の取った成り行きに対して潔く自分の進路を決めています。
人間というのは、いざとなった時にどうなるか、という処にその人間の本性 ( 真価 ) が表れるもので、「いざという時」になって見ないことには、なかなか解らないものです。そういう時に、その人間の本性が現れて、人が変わってしまうことが多い。孔子を乱れさせなかったのは、孔子の中に貫かれた信念のようなものがあったからというだけでなく、そういう人間というものを散々見てきたということも要素になっているのだと思われます。

 

それぞれの人が「その人」という人物を生きているのと同じように、孔子という人も、川端康成という人も、ただひたすらに、自分の中にある自己を懸命に追って生きていた人であったように思います。想いを支えていたものとは、もしかしたら、自分という存在の本質、或いは人生の意味を深める対象として、このような自分でありたいと強く思うもう一人の自分の後ろ姿にあったのかも知れません。

 

 

天から与えられた自分を生きること、正にそれが天命に違いない。
しかし、自分を生きるといっても、我を通すことではない。
自分の中にある彼岸、永遠の魂に通じるものを見つめて生きること。
これ即ち、天命に然り。

 

天命を知り、その天命に自分の命をかけて生きる者は、
飢えたり死にそうになって窮地に陥ることは元より覚悟している。
たとえ途上で死んでしまっても、天命をかけて生きてきたことを悔いることはない。
何があっても、天に命をかけた自分は変わらない。乱れない。

 

困難なものに立ち向かおうとする者は、常に窮する上に生きている。
楽を追い、困難を避けて生きる小人は、窮すれば忽ち乱れてしまう。
愚痴を言い、腹を立て、処構わず貪り、
誇りを捨て、尊厳を捨て、信頼に捨てられる。

 

己を生きて闘っている者は、常に傷つき、困窮している。
己を生きるとは、満身創痍になる覚悟がいる。
楽に勝つなどは、子供と闘うようなものだ。
自己の力を凌いで闘おうとする者は、楽に勝つような生き方はしない。

 

 

 


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