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お知らせ・つらつらノート

2018.12.01 【つらつらノート】 人間 この不思議な存在 ④

 

                             ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 


 自分って、一体誰なのでしょう  ? 

 

この世界の存在はすべてが対の関係で成り立っている、という事でいえば、自分という意識は他人との比較の対照から生じてくることになります。色の世界に白だけしかなかったら、それは白と呼ぶ必要もないように、この世界に自分しかしなかったら、自分という存在を意識することもないのかも知れない。「他」が存在するゆえに、「自」を自覚するというワケです。
ということは、自分という意識は、自分の自覚から発しているようであっても実はそうでなく、他人の存在意識との関係から生じていることになりますし、自意識の活動もそのような他人との関係性を土台にしたところから発生しているのかも知れない。

 

「他人がいなければ自意識もないのか  ?  」、という観点からつらつら考えてみると、「他」も「自」も意識しない、自意識のないという状態というのが、自分が何も思わない、思わない故に何も考えない人間だとしたら、どうでしょう ?  生きていることの意味も考えないし、思うことがないとしたら…。  比較する食べ物があれば、食べ物の美味しい、不味いは解るでしょうが、より美味しいものを探求するようなことはしないかも知れません。こういう状態を考えてみると、とにかく「自」に関心がないという事なのでしょうから、「他」に対しても関心がないでしょうし、宇宙がどうなっているかなんて、全然思わないのではないでしょうか。 そう考えてみると、もしかしたら、本能だけで生きている動物の感覚って、そういうものかも知れない。

 

他人を意識するという事から始まって、そこから、自分という存在を意識し、自分とは何かと考えたり、そこからまた自分と関係している他事について想いを馳せたり、そのような事の積み重ねによって自分というものの意識の世界が膨らんでいく事を考えると、他人を意識するというその事がそもそもの発端であり第一ポイントであるとしたら、他人が存在するという事は、なんともスゴイ事であると思えてきます。
「人間は一人では生きられない」、などという言葉をよく耳にしますが、誰かが何かをしてくれているから、というのではなく、何もしなくてもただそこに存在しているというだけで、この自分の意識の世界が成り立っている、と考えると、なんとも不思議です。
もっとも、他人を意識する、といっても、意識的に意識するよりも先に、殆ど無意識のうちに認識している、その無意識的な働きなのですから、私たちがまったくその事実に気がつかないというのも、全然不思議な事ではないのですが・・・。

 

他人という存在、これを普段は当たり前な事として捉えながら、時には人間関係の難しさや煩わしさによって他人から離れていたい、一人になりたい、などと思うこともありますが、もしもこの存在がなくなってしまったら、行き着くところは人間も本能で生きているだけの動物と同じようになってしまうかも知れないのか、と考えると、・・・なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
人間も動物のようであれば、確かに悩みなどはないかも知れないけれど、その変わりに生きる歓びが持てなくなってしまったら、それでは生きていることがあまり面白くないような気がしてしまいますが、しかし何も思わなければ、面白いも、面白くないもありません。
自分という意識を持ったり、何か面白いと思ったりすることは、つまりは他人という存在から始まって、他との繫がり、コミュニケーションがあるから生じているものであるようですが、それにしても、もしも自分の周りから誰もいなくなり、一人になって、他人という存在とのコミュニケーションができなくなってしまったら、果たして自分という感覚がなくなってしまうのでしょうかねぇ… ?


しかし、少し別の角度から考えてみると、周りにあまり人がいないで済む生活というものや、何も考えないで一日一日を過ごすことができる人生は、なんと静かで平和であろうかとも思ってしまいます。そういう生活に疑問も抱かなければ、おそらく寂しいと思うこともないでしょう。それに、自分という意識感覚が希薄であれば、もしかしたら他人を見る眼も、現代を生きる私たちとは違って、用心すべき存在(或いは、敵対的な他者  ?  )として見ることはないかも知れない。他者に対しても、あまり区別する感覚なく、半ば自分の分身のように思うでしょうか ?

 

 

 


2018.10.13 【つらつらノート】 人間 この不思議な存在 ③

 

                                ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
 

 果たして、人間の意識は永遠に不滅なものなのか  ? 

 

しかし本当に、人間の意識は、果たして不滅で永遠のものなのでしょうか ?  私たちの日常的な意識からすれば、私たちの意識は死ねば消失してしまう、というのが一般的です。不滅で永遠だなんて、とても想像できませんし、容易には納得できません。
ハムレットではないけれど、肉体が死んでも、それで終わりでないとしたら、と考え始めると、コワイですよね。考えて解ることではないのですが、「本当に、どうなっちゃうのか  ?  」、なんて思ってしまいます。

私の場合、死がどのようなものであって欲しいかというと、どちらかと言えば、この意識が永遠に続くよりも、永遠の眠りに着くように、死んだら何もない真っ暗闇の方が断然いいように思います。いろいろな事があった一日を終えてヘトヘトになって布団に入って、もう何もしなくていい安堵感に包まれて深い眠りに着くように、決して誰にも起こされることもなく、意識を呼び覚ますような夢を見ることもなく、永遠の静寂の闇の中でゆっくりと静かに眠り続けていられるようであったら、どんなに幸福かというふうに思います。だけどそんなに都合良くこの人生が終われるものだろうか、とも思ってしまいます。

しかし、意識というものが情報というエネルギーの一種であるとすれば、エネルギーは物理学で証明されているように保存されるかも知れない訳ですから、形骸は消失しても、そのエネルギーの本質はどこかに保存されて消滅することはない、のだとしたら  ?    仮に、「エネルギー保存の法則」の通りになったら、例え死んでも、『何か』が残るかも知れないんです。それは私たちが意識として感じているものとは、もしかしたら随分と違うものかも知れない。

 

意識というものを格段に解体した先にある、無意識の深遠な深さに通じるところのものであるような気がしますが、それを昔の人は、『魂』という言葉で伝えてきたように思えます。たまに、タマシイなんて迷信のような感じで否定する人がおりますけれども、生きている人間の複雑さ、人生というものの不可解さなどを鑑みて考えてみると、人間の想いというものも森羅万象の力の一形態であるとすれば、そのような迷信に似た訳の解らない特異的な存在も、ひょっとしてあるかも知れないと思えるのです。

 

そんなところまで考えてみると、人間って本当に不思議なイキモノだなぁと思います。
そのように思っている自分という存在が、そもそも不思議な存在であるわけです。
自分とは一体何か、という事を考え出すと、考えれば考える程に解らなくなってしまいます。

「自分とは一体何か」、とと考える時に意識する、その意識するという現象を考えてみても、何だかワカラナイ。養老孟司さんの著書の中に、東大の医学部の学生が授業中に、眠り薬が効く理由を教授に質問したところ、苦々しい顔で睨まれた、というエピソードがあって、要するに、医学的に何故眠り薬が効くのかを説明できないくらいに人間の精神の何たるかを説明できないのが、医学界の現状であるとの事なのです。
果たして、この意識、精神とは自分のこの身体の中の一体どこにあるのか ? という問いに対しても、脳の周辺に由来して存在するようにも思えますが、精神とは身体の一体どこにあるのか、意識は脳のどこで働いているのか、という問題は、まだ謎のようです。何しろ、精神とは、非物質で、心とは何  ?  、愛とは  ? 、などという人間の永遠の問いと同じようなのです。

 

この身体に秘めている生命のエネルギーとは、何なのでしょう  ? 
人間の身体の中で、肉体を成長させ、そして衰退へ導き、終いには抜け出て行くエネルギー。
何処からか来て、共に生きて、何処かへ行ってしまう。
細胞群を成長させる生のエネルギーと、細胞を死滅させる死のエネルギーは、まったく同じエネルギーのようです。

 

 

 


2018.08.25 【つらつらノート】 人間 この不思議な存在 ②

                                ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

 情報って、一体何なのでしょう  ? 

 

情報って、一体何なのでしょうね。一体どこからやって来て、何をしようとしているのか。誰それがどうしたとか、何処で何が起きたとか、それが私たちに届いて、それでどうなるのか  ?   そうしてやがて社会を変えてゆくというのか、私たち人間がすこしづつ変わってゆくというのか。時代が変わってゆくというのは、それは情報の伝わり方によるものなのか。もしも、新しい情報が何も入ってこないままでいたら、時代や社会も変わらないものなのか。つまり、社会や時代という大きなものを変えているのは、私たちの間に流れている情報というものの力による現象なのか。 人々が会話したり、テレビを見たり、新聞を読んだり、本を読んだり、そういう事の連鎖が次第に変化の力となって、時には何処かで誰かが情報操作などをしながら、何かを変えるべく情報というものが流れていって、社会や時代や人々の意識の変化が起こっているという事なのか。

そのように考えると、情報というのは、何気ない日常の中で見たり聞いたり話したりしている事であっても、私たちが考えているよりもとても大きな力を持って、いつの間にか私たちの幸福や不幸を支配しているという事なのでしょうか ?

・・・

このように書いてしまうと、情報に支配されているだけのようですが、もしも自分を変えたいのなら、外からの情報に支配されることなく、己の変えたい方向へ情報を操作してみるのも、情報の使い方ですし、自分の裡なる情報を如何に自己流に創ってゆくか、という次第かとも思えます。

 

今世紀になってからというもの、それまで情報の多くを占めていたテレビやラジオ、新聞や書籍の時代は、だんだんと過去の遺物のようなものになり、情報手段のメインはインターネットの時代に変わり、更にネットを通じた小型コンピューター端末器との会話による情報化時代になろうとしています。
このようなネットの世界は、それこそ情報の世界です。世界中のたくさんのコンピューターで繫がった情報があっちからこっちから流れていて、必要な情報を捉えようと、多くの人が端末機器を操作している。文字や数字や図形で表される情報は、しかし流れている時は無形のものです。空中を飛んでいる電波、電話線や光ファイバーの中をどんな情報が流れているかは見えません。情報というのは物質ではない訳ですが、ただ物質の中を通って流れることができる。電波で飛んでくる情報も、それだけでは何も見えないが、物質(テレビやスマホなどの端末機器)を媒体にしてはじめて、それがどのような情報なのか見える形となって現れる。物質に関与してこそ、情報が形になって、そこからいろいろモノ(人の行動や、機械や)を動かすエネルギーとなる。

 

ですから、情報というエネルギーの性質として、物質のある所には、何らかの情報が帯びていると言えるかも知れません。何らかの情報を帯びているから、他の物質に帯びている情報によって多様な変化の連鎖が起こるとも考えられるわけです。

そのようにして考えてみると、花でも、石でも、気に入ったアクセサリーでも、何故か妙に気に入っているものというのは、何らかの形で私たちの意識や気持ちの中にある情報と情報交換をして、私たちの意識を動かし、行動を促しているのかも知れません。

 

時に、何かを無性にしたくなったり、食べたくなったり、何処かへ行きたくなったりするのを思うと、私たちの体を動かしている生命というエネルギーも、確かに何かの情報なのだと思うのです。しかし、何の目的のための情報なのでしょう ?   この情報は、何に使うために私たちに備わっているのでしょう ?   そんなことは誰にも解りませんね。未知なものなのでしょう。けれど、私たちはそれを持っている事実があります。 私たちは、一人一人がある種の複雑で厖大な情報を持っていて、その情報を形にするために肉体という物質を通して様々なエネルギーを代謝させているのではないかしらん … ( 例えば、飛行機を作ったり、絵を描いたり、人を好きになったり…)。

 

肉体がハードウェアで、精神がソフトで、とすると、私たちが持っている記憶の情報やこの意識も、ソフトです。 PC だったら削除すれば記憶は消えますが(コンピューターに詳しい人によっては、削除しても消えるわけではない、という人もおられますが)、私たちの意識…潜在意識にある記憶というのは、埋もれはしても、完全に消去というのは難しいもののようです。
意識を情報として考え、エネルギーとして考えると、物理学の「エネルギー保存の法則」の通りに、不滅なものであるかのように思えますが、エネルギーといっても色々な形態のものがあり( 磁力エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギー、重力エネルギー、などなど )、エネルギーであればすべてが保存されるという証明はされていません。しかし、地球が誕生し、生物が存在するようになり、次第に多種多様な生命が育まれ、それぞれの生物がその生と死の連鎖の中で代々受け継がれ進化して来た「遺伝情報」というものを考えると、その情報の保存性の高さを否定することはできないのではなかろうかと思いますし、そもそも身体を作る遺伝情報を動かしているのが、無意識的な身体の働きという解釈であれば、意識や無意識の情報としてのエネルギーというものも、身体の遺伝情報と同じように保存性の高さを有するものであるかと思えるのですが・・・。

 

 


2018.08.04 【つらつらノート】 人間 この不思議な存在 ①

                                ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

ときどき、人間って一体何なのだろう、と思うことがあります。一体、何のためにこんなことをしているのか。結局、何を求めているのだろう、と漠然と考えてしまうことってありませんか ? 
求めるものは、それが手の内に入って暫くすると何やら当たり前のものに思えてきて、次のものを求めている自分に気がつきます。求めているのは確かに自分なので、その時は本当に自分が求めているように思っているのですが、それを繰り返してゆくと腑と気づくのです。本当は自分は何を求めているのだろうか、と。現れては消えてゆく欲求はただ単に生理的 ( もしかすると動物的 ? ) な衝動でしかなかったのではないか、と。

 

これはヒジョーに空しい気持ちがします。まるで頭を使っていないみたいでクリエイティブじゃない。若いうちならまだそれも許せるように思えますが、いつまでもそんなことをしているのはどうも精神が未熟過ぎるのではないか、と思うのです。肉体的な生理現象は致し方がないとしても、精神的な生理現象については、レベルのようなものがあるように思えます。
しかし、果たしてその精神とは一体どこにあるのでしょう ? 脳の周辺に由来して存在するようにも思えますが、一体どこに精神があるかはまだ謎のようです。何しろ、精神とは、非物質なのです。

 

精神は、やはり、肉体の中にあるのではないか  ?    「そんなのはアタリマエだ」と言われそうですが、しかし、精神とはやはり物質ではないだろうから、肉体という物質そのものとは違うものだろう 。  …ということは、肉体というのは、単なるアタリマエの物質ではないことになる。物質であって物質でないモノ。つまり、そのモノの中には眼に見えない厖大な情報が入っていて、血液やホルモン物質などといっしょにグルグルと活動しているのではなかろうか、と。
そのような見方をしてゆくと、我々人間というのは、非常に不可思議な存在ですね。

 


 人の身体の中にある「情報」

 

医学書などをめくると、ヒトは 60兆個もの細胞から成っていて、身体の 70 パーセント が水分でできている、などと書いてあります。60兆個もの細胞が集まっているというのが、どういう事なのか、はっきり言ってよくわかりませんですよね。例えばそれをお金で例えてみると少し実感がもてそうです。
例えばあなたの子供ができて、オギャアと生まれた日から100年間、毎日毎日 1,000万円のお小遣いをあげたとしましょう。1,000万円ですよ。しかしそれを 100歳になるまで毎日毎日貰ったとしても、3,650億円くらいなんです。60兆円貰うとしたら、ナント、16,400年間も生きてお小遣いを貰わなければならないんです。今が西暦の 21世紀ですから、185世紀まで生きるんですね。 なんだか草臥れてしまいそうな感じがします。

 

例が卑近だったかも知れませんが、とにかく 60兆という数はそれほどに厖大でありまして、それだけの数の細胞を私たちは皆持っているわけです。その細胞のひとつひとつが活動しているわけです。それは眼に見えない分子の世界ですが、その世界もまた、私たちの世界と同様に自然の摂理のもとで営まれているものです。

 

さて、その細胞というのは一体どのようなモノなのか ?  細胞もまたそれ自体で1つの生きものです。ちょうど人間の身体と同じように、栄養を吸収したり、排出したり、自体を守ったりする働きもします。
細かい、ムズカシイ事は医学書を見てもらうことにして、それらの働きを統率している核のところに、DNA という情報の集合体があります。二重のラセン構造をしていて、たった 4 つの種類の塩基という物質の組み合わせによって、細胞の組成に必要ないろいろな物質を生産する元の情報源です。このラセンの格子が1個の核の中に 30億対もあるのです。30億対の情報を持った細胞が 60兆個、一丸となって活動しているのが、実際の、私たちの体なんです。しかもそれだけの情報を持っていても、私たちが意識しているのはひとつのスクリーンだけで、そこに見られる情報というのは、身体全体の情報から見たら、ホンの微小なものでしかないということですね。その他の大部分の情報というのは、私たちの意識の下で、漠然とした無意識の働きとして、私たちを動かしているように思えるのです。

 

私が悲しみや悩みに陥って、どうしてそんなに悲しいのか自分でも解らない時、私の中で私をそうさせているものは、多分、以上のような厖大な情報による無意識の世界の、漠然とした記憶による現象なのではないか、と思います。私たちの日常的な意識では感知できない厖大な記憶を私たちは皆持っている。それらのものが、私たちをある意味で支配しているのかも知れません。

 

私たちがこの世に生まれた時には、親からの遺伝情報を含めて、もう既に体の中にたくさんの記憶情報を持っていたことになりそうです。体の複雑なメカニズムを制御しているプログラムはすでに動いていて、それもまた生命の不思議な現象である訳ですが、そのように考えると、産まれてきた赤ちゃんは、既に何らかの記憶情報をダウンロードしてきている、と言ったら、妙な感じがします。 

 

最近の小児心理学などでは、お母さんのお腹の中にいた頃の記憶を語る子供たちを紹介している本などもあります。出生前の胎児にも既にある程度の認識ができる意識と、短いけれど暫定的な記憶力がある、という意見もあります。

 

しかし思うに、そのような記憶って、一体どこから来たのでしょうね。

 

 


2018.07.14 【つらつらノート】 現実からの逃走

                        ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

日頃、わたしたちが、自分たちの置かれている現在の現実から如何に眼を背けるようにして過ごしているか、その事を「どうしようもない」と嘆いていた人物がいます。その人の名は、「人間は考える葦である」という言葉で有名な、パスカルです。


「わたしたちはよく、全くなきにも等しい時の事を夢のように描き、現実に存在するただ一つの今現在の時を、うかうかと見過ごしてしまう。
それというのも、普通、今という現在は、わたしたちを痛めつけることが多いからである。
わたしたちが現在を見まいとするのは、現在の現実というものが、いつもわたしたちを苦しめるからである。
現実の苦しさのために、わたしたちは、まず現在のことなど考えていない(現実のことなど考えたくない)、と言ってよい。
思いのほとんど全てが、過去と未来によって占められている、といっても過言ではない。
過去や現在はわたしたちの手段に過ぎず、未来だけがわたしたちの目的で、考えるのは、いずれ先の未来のことばかり。
現実の問題を常に避けているのであれば、わたしたちは、少しも生きていない、生きているとは言えない。ただ、生きようと望んでいるだけである。
人はつねに未来に生きているのであって、現在には決して生きていない。
いつも幸福になりたいという姿勢だけはあっても、わたしたちがついに幸福になる事ができないのは、どうしようもないことである。」

 

パスカルは早熟の天才と呼ばれ、数学や物理といった分野においても定理の発見などをしていますが、子供の頃から体が弱く、病弱で、40歳という年齢で病死しています。そういう境遇にあったせいか、晩年は宗教 ( 聖書の探求 ) の方面へ没頭していったということで、上記の言葉も、パスカルの死後に本となった 『 パンセ 』 の中の 「 空しさ 」 という章にある言葉の一つです。自分の体の弱さや病気に対する悔しさや不条理感が、彼の人間に対する見方の根底にあったように思われます。

 

気づかされてみると、私の場合も過去や未来の(あまり必要でない)どうでもいい雑念に囚われたり煩わされたりしていることが多く、如何に現在という時間を無駄に過ごしていることか !  という事がわかります。そうは思っても、今現在のこと、現実のことに向き合って真剣に考えようとすると、非常な集中力を必要としなければなりません。
パスカルの、 『人間は考える葦である』  という文章に、「今を生きて真剣に考えることに於いてのみ人間である」という言葉がありますが、どうしようもない事にもめげずに対処してゆこうとする厳しさが窺われます。
自身の病と死を傍らに見つめながら、現実と向き合い真剣に考えて生きることの厳しさを通して、先にある死を祝福しようとしていたのかも知れません。

 

 


健康整体ルーム 1996年開業
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