横浜市二俣川駅近くの健康整体ルーム|頭痛、腰痛、めまい

045-366-0067

  1. ホーム
  2. お知らせ・つらつらノート

お知らせ・つらつらノート

2018.07.14 【つらつらノート】 現実からの逃走

日頃、わたしたちが、自分たちの置かれている現在の現実から如何に眼を背けるようにして過ごしているか、その事を「どうしようもない」と嘆いていた人物がいます。その人の名は、「人間は考える葦である」という言葉で有名なパスカルです。


「わたしたちはよく、全くなきにも等しい時の事を夢のように描き、現実に存在するただ一つの今現在の時を、うかうかと見過ごしてしまう。
それというのも、普通、今という現在は、わたしたちを痛めつけることが多いからである。
わたしたちが現在を見まいとするのは、現在の現実というものが、いつもわたしたちを苦しめるからである。
現実の苦しさのために、わたしたちは、まず現在のことなど考えていない(現実のことなど考えたくない)、と言ってよい。
思いのほとんど全てが、過去と未来によって占められている、といっても過言ではない。
過去や現在はわたしたちの手段に過ぎず、未来だけがわたしたちの目的で、考えるのは、いずれ先の未来のことばかり。
現実の問題を常に避けているのであれば、わたしたちは、少しも生きていない、生きているとは言えない。ただ、生きようと望んでいるだけである。
人はつねに未来に生きているのであって、現在には決して生きていない。
いつも幸福になりたいという姿勢だけはあっても、わたしたちがついに幸福になる事ができないのは、どうしようもないことである。」

 

パスカルは早熟の天才と呼ばれ、数学や物理といった分野においても定理の発見などをしていますが、子供の頃から体が弱く、病弱で、40歳という年齢で病死しています。そういう境遇にあったせいか、晩年は宗教 ( 聖書の探求 ) の方面へ没頭していったということで、上記の言葉も、パスカルの死後に本となった 『 パンセ 』 の中の 「 空しさ 」 という章にある言葉の一つです。自分の体の弱さや病気に対する悔しさや不条理感が、彼の人間に対する見方の根底にあったように思われます。

 

気づかされてみると、私の場合も如何に過去や未来のあまり必要でない雑念に多く煩わされていることか !  今現在のこと、現実のことに向き合って真剣に考えようとすると、非常な集中力を必要としなければなりません。
パスカルの、 『人間は考える葦である』  という文章に、「今を生きて真剣に考えることに於いてのみ人間である」という言葉がありますが、どうしようもない事に対処しようとする厳しさが窺われます。
自身の病と死を傍らに見つめながら、現実と向き合い真剣に考えて生きることを通して、先にある死を祝福しようとしていたのかも知れません。

 

 


2018.05.26 【つらつらノート】 駄目ということについて

今の自分を駄目だと思っているとしたら、それは、この世界の摂理( 自然界を支配している理法 )から遠く離れている。
人間の真価は、人生の良い時期よりも、寧ろ駄目なように見える時期で明かされる。
その時期が大切で肝腎なのだから、駄目である事は、本当は駄目ではない事なのである。
事実は駄目であっても、真実は違うところにあり、そういう状況の時期こそ人生の大事処なのだ。
だから事実はそうであっても、現在の駄目である自分を簡単に認めてはいけない。
駄目である事実だけを、そのまま自分の懐に入れてしまえるくらいの度量が必要である。
むしろ、マイナスを抱えている事こそをプラスの要因と受け取って、密かに胸を張って肯定していることだ。
自分を駄目だと思っている自分という存在は、一体何との比較によって駄目であるのかを考えなければならない。

 

自然界では、本当に駄目なもの、必要のなくなったものは淘汰されてゆきます。
この人生の本質は、自らの存在によって生じているのだから、自らの存在がこの世界(環境)にとって必要であれば、それは環境が自らの存在を許容している証左であって、つまり淘汰を免れているのですから、駄目という事実はないことになる。
何事も、この現実をして、今日現在に生きて存続しているものであれば、たとえ事実的に駄目な状況にあったとしても、それは一過程の出来事に過ぎず、プロセスでしかない。そのプロセスを結果として受け入れてしまうことで間違いを犯せば、現実にそれが結果となって、本当に駄目になってしまうのです。

 

私が確信的にこのようなことを言えるのは、この人間という存在が、宇宙をも内包するような精神のダイナミックさや、生命という不思議な働きを持つ身体の、神懸かりとも壮大とも言える精巧さや、そして何故この世界に出現しているのかという経緯の答え様がない不可解さに、謂わば驚愕しているからに他ならないからです。

人間という存在について、いろいろな方面から学んでいくと、この人間という存在ほど、摩訶不可思議な存在はありません。

その人体構造は、宇宙にも通じる神秘的な不可解性を持っていて、その姿は、何よりも美しく、微笑ましいものでありながら、その行動と心の思惑は、もっとも美しいところからもっとも醜いところまでもが反映されていて、或る意味、、美しくあっても醜くあっても、優良であっても駄目であっても、どちらでも当たり前でいられるという不可解な存在であって、しかしその両方が一個の人間の中に共存している存在のダイナミックさ、ダイナミックレンジの広さを思うと、簡単に結論をつけられる存在では決してないということになる。 こんなに精巧で巧みな構造を持った存在が、簡単に駄目になる筈がないのではないかと思えてくるのです。 
駄目だと思っているのは、それも誰よりも本気で駄目だと思っているのは、実際は他ならぬ自分であるというのが決定的なのであって、つまりは、その自分が、自らが持っている精巧で英知に満ちた存在の価値を、実はあまりに解っていないだけなのではないか。 いくら他人に言われようと、自分は駄目じゃないと思えれば、本当に駄目になる訳がないのではなかろうか、と思えてくるのです。
しかしその事実に気づくには、「 自分は駄目だ 」というところまで行かないとなかなか気づけない、というのが、この世界の摂理であるようです。

 

 


2018.03.24 【つらつらノート】 心のフィルター  ( 心の傷みに対処する、身体の働き )

人間の構造には、自身の身を守るための機構があります。
痛みもそのひとつです。しかし、その痛みの度合いのスレスレなところで防御することができず、身を守ることができない場合もあります。
身を守ることができなければ、当然、体も心も、傷を負ってしまいます。
今回は、心の傷の話です。

 

人は、体を傷つけられれば、痛みを感じます。もしも、打たれたり、蹴られたり、何かにはさまれたりして、身体が危害をこうむっているのに、それを止めることができなかったら、打たれ続けてそのうちに気を失い、死に至ることもあるでしょう。身体の損傷に対して痛みの感覚を感じるからこそ、痛い思いをしたくないからこそ、相手をよけたり、逃げることによって災難を回避し、自分という固体の存続を守ることができる訳です。
身体に悪影響を与える危険な力は、そのようにして回避できます。しかし、人は言葉や見るものによっても、痛い思いをします。心身に対してそれが強烈な場合、本当に胸や頭に刺されるような痛みや、激しい頭痛や嘔吐を覚えることもあります。視覚や聴覚といった感覚の神経が、神経性の痛みや不快を連鎖させるのです。耳に聞こえる言葉や、眼に見えるものによっても、物理的肉体的な暴力と同じように、人はとても傷つき、消耗するものなのです。
しかし、耳に聞こえるものも、眼に見えるものも、耳を塞いだり、眼を閉じたりすれば、少なくともその時点から回避することもできます。聞いてしまった言葉、見てしまったものはどうすることができなくても、耳や眼を塞いでその場から逃げられれば、それ以上の被害は防げます。

 

さて、そうやって耳を塞ぐことができる状況であれば、対応の仕方もあるのですが、どうにもできない状況というのもあります。つまり、大きな声で言われたりすれば、耳を塞いだり、逃げることもできますが、非常に聞き取りにくい小さな声であるとか、ヒソヒソ話のように、いったい誰に向けて言っているのか判然としない状況で耳に入ってくるものであると、どうしようもないというか、逃げることもできない訳です。できないというよりも、耳を塞ごうとも思わない訳です。 逆に、こともあろうに、そのヒソヒソ話に無意識的に注意が向いてしまって、その場から離れられず、耳にどんどん入ってくる、という次第になってしまったりするのです。その時にはその言葉が自分を傷つけているものとは判別できなくても、耳にはどんどん入ってきて、脳に送られている・・・。
聴覚というのは、例え眠っていても、しっかり働いている場合があるということが、近年の脳科学の実験などで解ってきていることのようで、 耳に入ってくる情報は、例え本人が聞いているようには思えない状況においても、脳にはちゃんと届いているケースがあるということです。それは、その人の意識の奥のところで注意が向いている、脳が関心を持って聴いている、ということなのかも知れません。

 

思うに、心には外部からの危険な情報を処理する「網のようなフィルター」があって、視覚や聴覚といった感覚神経を通して体の内部に入ってくる情報の中に自分を傷つける因子があると、そのフィルターに引っかかり、そうすると痛みや嫌悪感の信号となって脳の制御装置が「遠ざかれ」 という思いを発っすることで、自己の心身を守る手段を取ろうとするのではないか。 そうやって、中傷・誹謗の因子の侵入を監視し、危険な因子の侵入を防いでいるフィルターのような装置があるのではなかろうかと思われます。しかし、その因子が五感の自覚レベルよりも少し小さかったりすると、例えば声が非常に小さかったり、眼に見えるものでも瞬間的で、些細なものであったりすると、フィルターに引っかからずに素通りしてしまって、身を守る手段を取ろうとすることもなく、いつの間にか中傷の因子を取り込んでしまう。 取り込まれた中傷の因子は、自覚のないままに脳神経の奥深くに積もり、やがてそれが積もりに積もって、意識下の心の領域を傷だらけにしてしまうのでしょう。ある程度の大きさになった頃になって、傷みが自覚に上ってくる。

 

ある程度大きいものよりも、反って小さいものの方が見逃されやすいのです。感じるものが小さければ、まぁこのくらいはガマンできるだろうとか、大丈夫だろうとか、さして気に止めないで我慢してしまう場合がある。しかしそういう性質のものだからこそ、心の奥深くに入りやすく、そして原因の痕跡としても見つけ難く、後から処理することが困難なのです。何か気に障る事を言われているようでも、「 まぁ気にしない、気にしない。 」 というように切り替えられるのは、まだ心に余裕と余力があるうちです。 心にエネルギーがあって、神経が疲弊していないうちは、転換がきいて、気にしないでも済みますし、不要なものを排出する(忘れられる)力も持っている。しかし、心身に疲れが溜まっていたり、煩わしい事が重なっているような時期には、心の余裕も余力も乏しくなっていがちなので、そういう時に悪意のあるヒソヒソ話とか、逃げられない状況で神経に障ることに耐え過ぎてしまうと、心はその時からゆっくりと深く病んでいってしまうのではないかと思うのです。
ヒソヒソ話を聞いていると、なんとなくイヤーナ感じがするのも、心の警告の反応なのかも知れません。

 

このようなことを考えてゆくと、心の働きというのは複雑なものですから、本人がもうどうしようもない程に追い詰められて、 「 もうゼッタイに聞きたくない ! 」 という強い意識を持つに至ってしまった場合には、心の無意識の働きで聴覚を遮断するということもあり得るのではないかと思われます。何か、本人が非常に傷つくようなことを言われ続け、それに耐えに耐えているうちに、いつの間にか、あれもこれも聞きたくない、という状況に陥ってしまったら、固体の存続を守るために、無意識的な自己防衛本能が働いて、心は聴覚を閉ざすかも知れない。心はあらゆる感覚に繫がっているので、それは聴覚に限らず、他の感覚に起こっても不思議ではないでしょうが、しかしそれは本人が意識してしている事ではないし、心の無意識の働きなので、本人にも理解できない、周りの人間にもなかなか理解できない困った事態になってしまうのです。

原因のはっきりしない突発性の難聴や急性の弱視などのなかには、もしかしたらそのような背景があるケースもあるかも知れない、と思うことがあります。

 

 


2018.02.10 【つらつらノート】 一体、何の為かはわからねど

認知症になってしまった人や、寝たきりになっている人、介護なしでは生きられない人などの、そういう姿を見ていると、時として、一体何のための人生であったか、などと考えてしまうことがあります。私が、この何年かの間にそういう人たちを見る機会が幾度もあって、そして私の父親も認知症になってしまった所為もあって、やはり時には深い無力感に襲われてしまうことがある訳です。一生懸命生きていっても、ああなってしまっては、一体何のための人生だったのだろう、と考えてしまう。
しかし不思議なもので、ずっとそのようなことを考えていると、腑と、「いやそうではない」という思いがどこかから出てきて、本当はそうではないのではないかと思えてくることがあります。本当の処は、その人が自分の人生のその時その時を生きてきた事実が大切なことであって、それは、個人的なレベルでは今はもう何もできなくなってしまっている状態であっても、どこか違う見方をする事によって、これはこれで何かのためになっていることであり、もしかしたら、この状態であることが、何か知れないところで既に役に立っていることであるかも知れないと思えてきたりするのです。
その本当の処は、一般的な常識からの見方ではわかり難い事なのだろう、とも思えます。

 

もしかしたら、人が個人として生きている部分というのは、実は、極わずかな処のものだけであって、人間が国家や社会の全体として生きて行くのに、あまり個人のレベルの問題を重要としない機構というものが、この集団的な意識の奥底で働いているのではないか。 社会的組織的な生き物として存続するための厳粛な機構というものがあって、それは個人レベルでの幸不幸などを殆ど無視、というかスルーしていて、それを人は社会の問題の所為にしたりしているけれど、もしかしたら、それは社会の問題なのではなく、根本的に人間という存在、或いは、人類という存在にまつわる問題であって、人間に対する根本的な理解を促す問題の一つとして社会に投影され、そういった問題提議が、社会そのものの機構として働いているものであるかも知れない。
ユングが説くところの、個人的意識の底辺にある個人的無意識、その底辺にある社会的無意識、そしてまたその底辺にある普遍的な無意識。それらの無意識が人々の思考と行動の基盤にあって人を動かし、社会を動かしているのではないか、という説が思い浮かんできますが、何も冒頭で書いた介護の世界だけに限った事ではなく、社会のあらゆる所で、個人レベルの問題よりも、集団・組織・社会の論理が優先している現実があります。

我々の個人的なレベルでの意識というのは、その全体から眺めたら、ほんの些細な領域のように思われてしまいます。
我々が認識している意識というのを例えるならば、海面に浮かんでいる氷山の一角のようであって、海水の下に拡がる巨大な無意識層からの欲求によって動かされている、いわば細胞レベルの存在に過ぎないのかも知れません。

 


2018.01.20 【つらつらノート】 健康って ・・・ ?

健康って、どういう事なのか、と改めて考えることがあります。
元気でいること。病気をしないこと。明るくて、いつも朗らかでいられること。・・・。
健康的というと、やはり、前向きで、力強くて、明るい印象を抱きます。しかし、健康的な外見の良い印象を他人に対しても自分に対しても意識するあまり、心身の内側が疲れてしまうところもあるようで、逆に不健康になっているという人も見かけたりします。

 

健康という字から見ると、「健」という字は、「すこぶる」とか、「すごく」という意味で(だから「健忘」という言葉は、「すごく忘れる」という意味なのでしょうね)、そして、「康」という字は「やす い」という読み方もあって、「やすらか」「おだやか」という意味があると字引に載っています。
つまり、健康とは、「すごく穏やかでいて、安らいでいるような状態」を云うものらしい。動作が早い人でも、穏やかでゆとりがあるような人が、そもそも健康な人だという訳です。 確かに、快活でテキパキしている人なら良いのですが、短気でいつも気忙しく、ゆとりらしきところがまったくないような人といっしょにいると、後で疲れてしまって、身体に悪いような気もします。
このような意味合いからすると、健康、健康的というのは、健康になろうとしてアレコレと忙しなく何かをしたりしない、という事でもあるのではなかろうか、と思ったりするのです。

 

 


健康整体ルーム 1996年開業
〒241-0821
神奈川県横浜市旭区二俣川1-2-1
ライオンズステーションプラザ301号室
※エレベーターあります
TEL:045-366-0067
営業時間:9:30~19:00
定休日:毎週水曜日
PAGE TOP