お知らせ・つらつらノート

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お知らせ・つらつらノート一覧

先日、法事があり、久し振りに親戚の人たちと顔を合わせました。
お経が済んで、お坊さんの話があり、その話が法要の後の宴席でも話題になって、チョット面白かったものなので、ここにも書いてみたいと思った次第です。

 

お坊さんは、先ず、「色即是空」 という、般若心経に出てくる有名な言葉の話からはじめました。
色即是空とは、この世にあるいろいろなもののすべては本来 「空」 であるという意味の言葉で、いろいろなものとは、人間も動物もあらゆる物質もこの世の無常という法則のなかではすべて実体がない 「空」 であり、どれもがすべて仮の形、仮の姿を現しているものだという意味です、と話されました。ですから、自分と思っているような自分というものも、本当は無いのであって、自分というのはひとつの仮の姿をしているにすぎないものだ、と言うのです。
それから、ものの例えというふうに、こんなことを話し始めました。
自分というものが存在しないとしたら、社会というものも、国家というものも存在しないだろう、と。 あらゆるものは存在しないことになる、と言います。何しろ、色即是空なのですから。社会や国家だけでなく、家族も、愛も、恋も然り。結婚なんていうのも然りなのです。
すべては有るように思っているだけで、本当は実在しない仮のものだ。 有るように思っていることが、実際に有るように、我々の思いで感じを作っているだけで、そういう対象が実際に有る訳ではない、と。
ここでお坊さんは、今度は 「空即是色」 という言葉を持ち出して、「色即是空」 を反対の角度から見てみるとどうなるか、ということを話し始めました。
空がすべて、と表しているので、当然、この自分も、空という全体の一部分であって、空が自分という感じを作っているだけ、ということであり、私心もまた空なので、この自分という存在は空というものの一時的な仮の姿だと言うのでした。空とは、このすべてを統括した全体を動かしているものであり、その全体のために、仮にこの地球という星が必要であり、そこに生まれて生きる者のために集団という社会が必要であり、仮に国家が必要であり、仮に家族が必要であり、そこに仮の自分という意識も必要であり、それは私たちに、仮に父として、仮に母として、仮に子供として、個々の役割を持って生きている自分という存在があるのですが、こうして各々みなさんがそんなふうに知らずに納得して此処に居られるだけなのです、と言われるのです。
したがって、愛も恋も、仮にそう思っているだけで、結婚も仮に結婚と呼んで、男と女をひとつにして子供を生み、家族、社会、国家という全体性の為に認識させられているということになる、と。 そうさせているのは、或いはそのようにしているのは、我々の意識であるように思っているけれども、実は我々の意識がさせているのではなく、空という、この宇宙を包んでいる渾沌とした力の働き、そうした全体的普遍的無意識の働きが、我々の集団的無意識に働きかけて、させているということになるのですよ、と仰いました。これはちょっとユングの心理学と共通した考え方で面白いと思いましたが、そこはお寺のお坊さん、すかさず、つまり全体的普遍的無意識である空とは、仏なのです。と言葉をつなぎました。
しかしそう言いながら、なんだか言い切れないような、ホンの少し不甲斐なさそうな顔をしていましたが、「仏なんていうのも空なんです」、と、思い切って言ってしまいたいような感じが漂っているようにも見えました。何しろ、空即是色、色相是空なのですから。
勉学が好きそうな、二代目のお坊さんでしたが、何かと現実と理想に板挟まって苦労しているような様子が、なんとなく窺えたものでした。

 

まぁ最後の方はお坊さんらしく仏という言葉も出てきてそれなりに話を終わらせましたが、「色即是空、空即是色」 という教えをこのように説明されたお坊さんははじめてでした。
この世の真理に想いを深めれば尤もなお話なのかと思うのですが、自分も仮なら相手も仮だとか、愛やら恋やらそんなものは本当はないとか、結婚も社会のための仮のもの、マボロシのようなものだとか、平気で仰っていたのですが、実はこの法事の集まりの中には、最近結婚したばかりのカップルも出席していて、先だっての結婚式の時には同じ顔ぶれの親戚の人たちに「オメデトウ」と祝福されていたのですが、この後の宴席では、みんなにさんざん冷やかされる事になってしまいました。お酒がまわった伯父さん伯母さんたちの中には、自分たちの結婚を省みるように、「恋愛や結婚なんていうのはホントーに夢かマボロシのようなものだ。現実はもっとキビシイぞぉー」とか、「いつの間にかさめてしまうものなのよねぇ」 などと、説教とも投げやりともつかない口調で話していたりする始末でありました。
いつもは何かと退屈な法事が、今回は、思いがけずもちょっと面白いものでした。

 

 


もう何年も前のことですが、私の父が認知症になり、次第に妄想に駆られるようになってから、自分の身の回りの物…例えば、眼鏡や財布などがなくなる度毎に、「昨夜、おまえがここに来て、オレの財布を取って行ったことはわかっているんだ…。」などと、ありもしない事を真剣になって、息子である私のところに電話をして来るようになりました。まだ一人で家に住んでいた頃のことです。そして、その晩にでも行って、いっしょに捜してみると、引き出しの中などから出てくる。そうすると、もう心底から「良かったぁ」という顔になって、「ありがとう、ありがとう」などと言ってくるのです。もう、自分が電話でどんなことを言ったかなど、ぜんぜん憶えていない。それでも、また何かなくなれば、睨みつけるような眼で言ってくる。そういう時は、本当に悲しいばかりでしたが、でも、本当に父が失くして取り戻そうとしているもの、取り戻したいと願っているものとは、一体何なのだろうと思うようになりました。父に、本当になくなっているもの。心底から取り戻したいもの。それは、お金や、眼鏡や、腕時計でもなく、預金通帳でもない、それらを抽象しているものなのかも知れない。お金のように、束縛されやすいものではあるけれど、肌身につけるように持っていることで、かけがえのない安心感を与えてくれるもの。恐らく、そういうものを父は失い続けていて、周りの者に訴えたかったのか。それはやはり、信頼ということだと思えたのでした。

 

物忘れがひどくなった父を説得して、病院へ行き、アルツハイマー型認知症と診断されてから、介護支援を受けるようになり、いろいろな方々からの忠告やアドバイスを受けるようになって日々を過ごすうちに、いつの間にか、父の言葉や感じていることなどを、私はそれとなく聞き流したり無視してしまうようになっていたのかも知れなかったのです。父の言っていることや、やっていることが、ますますトンチンカンになっているので、心の内では、父の言うことを信じてやれなくなっていたのは事実です。適当に相槌を打ったり、生返事をして聞き流してしまっていることもありました。父のためにいろいろとやっていることが、いつの間にか、父を抜きにして回ってしまっているのでした。自分は信頼されてない、と父は感じたものの、表面的には、自分のためにいろいろ手を尽くしてくれている娘や息子に対して、あまり真正面から胸の内にある憤りを吐き出せないでいたのでしょう。娘や息子に、自分の言うことが信じて貰えない苛立ちや、切なさや、孤立感、疎外感などを感じていたのだと思います。そういう胸の内に積もっていたものが、財布とか腕時計とか、何かが紛失した時の拍子に、自分でコントロールできない大きさで噴出していたのかも知れない。その時点で、すぐに電話して吐き出してしまわなくてはいられなかったのでしょう。そして父としては、娘よりも、息子の方が対しやすかったのでしょうね。いくら認知症だからといって、自分の息子に対してずいぶんと酷い事を言う父親だ、と怒りと共に思っていたものですが、よくよく考えてみれば、娘や息子の方だって、自分たちには見えないところで、親に対してずいぶんと可哀想な、酷い事をしてきていたのでした。

 

 

人にとって、一番大切なものは何か ?

それが人、人と人との関係であるならば、信頼は、この世界で一番大切なもの。
信頼を手放せば、すなわち、大切なものを失ってゆく。
信じることができなくなれば、どんどん分裂され、孤独になり、更に自分自身も失って、悲しみのどん底に堕ちてゆく。

一度壊れた信頼は、努力して修復できたと思っても、どこかに残ったヒビは消えることがない。

そうなる前に、何よりも、信じることを手放してはならない。
何よりも、信じることを優先させなければならない。
何か間違いがあったとしたら、先ず、信頼を手放していないかを確かめることだ。
しかし、人は間違いを犯しやすく、迷いやすく、従って、信頼を手放しがちな存在だ。

信頼を手放してしまったからと言っても、決して誰も責めてはならない。
人はそれを許しあう寛容を持たなければ、いずれ自分も悲しみのどん底に堕ちてゆくだろう。
すなわち、人から信頼を手放されても、自分が人を信頼することを手放してはならない。
多くの悲しみに傷つき、信頼を手放し続けたとしても、信じたいと希求する想いは人から去るものではない。
大切なものを見失って、人が信頼を手放そうとするからだ。
さぁ、もう一度、信頼を手元に引き寄せ、取り戻そう。その人の良き面を想い出し、見つめ続けよう。

 

この文章は、その頃、父が私に何かを言ってくる折毎に、自分に言い聞かせるようにしていた言葉です。

 


どうでもいいような事や、余計なゴタゴタをサッサと片付けて、やりたいと思っている事を早くやりたいのだが、矢鱈と雑用や別の用事が起きてきてゴタゴタが絶えない。その度に、人生というのはゴタゴタそのものでしかないのかも知れない、という気がする。
すっきりさっぱりした人生なんてのは、夢のまた夢かとヤケクソで思いながら開き直って、一体、問題のない人生のどこに、存在の証明が求められるというのだろうか、とうそぶいたりもする。
そもそも人生に意味があるかということ自体、不可解なことだが、しかし少なくとも、何も問題のない人生よりは、何事かがあっての人生の方が、何か意味らしきものがあるかと思えてくる。
ゴタゴタがあって、圧力があって、ストレスがあって、何かを動かしているのだから、そのゴタゴタにこそ、何かと繫がってゆく動力があるかも知れないと。それが様々なことと繫がり、人と繋がり、様々な世界と繫がり、その果てに実に、我々は宇宙と繋がっているのか  ? 
そんなふうに思ってみても、しかし、まったく、ゴタゴタが絶えないというのは不愉快なものだ。
Contiqutious !

 

「人生とは、何かを計画している時に起きてしまう、別の出来事のことをいう」
これは、写真家・星野道夫さんの友人で、アラスカで草分けの女性ブッシュパイロットだった、シリア・ハンターという人の言葉ですが、本当にそうだなぁという感じで思います。
人が本当に捜しているものとは、捜して見つかるようなものではなく、捜さずして偶然に「アッ」と発見して見つかるものであるのと同じように、思いもよらない出会いや流れの中に人生の意味らしきものがあるのかも知れません。
時に、「そっちじゃないのにィー」 と、まったく別の方向に行ってしまうような事態に嘆くこともあるけれど、そういう先に、本当に自分の捜していたものが忽然と待っていたりする、こともある。
何れにせよ、自分の道を生きる人生というのは、ハードで、最後までワカラナイものです。

 

 


今回は、腑と書き止めた文章のひとつを載せます。
これは誰の言葉だったか、どのような本に書かれていたものであったか、定かではありません。
いずれにしても、時にこの言葉を思い出して読み返していると、自分の中の自然性が感化されるように励まされ、自ずと力が出てくる言葉なのです。


『自然の動きには、願望は存在しないのです。自然の動きは、願望ではないからです。

願望というような不確実なものではなく、世の中にその動きしかない動きなのです。

ある目的の為には、その動き以外の動きはなく、足らないことも、過ぎることもないものなのです。

真っ直ぐに、その事だけしかないのです。自然の動きに欲はないのです。

従って、願望というものもないのです。

もし、願望があったならそれを捨てて、もっとその事実に本腰を入れて迫りなさい。

その動き、その方法でしかない処まで突き進みなさい。

その先にこそ、きっとあなたの自然の動きがある筈です。

その動きを獲得したとき、欲も願望もないことに改めて気がつかれる筈です。

自然な動きとは、自由且つ自在であり、邪魔なものがなく、例え邪魔なものがあったとしても、それが無いかのように寛いでいるものなのです。 』

 

 


形あるものは、すべてが変わってゆく。
人も変わり、事情も変わり、言った言葉も変わる。
この世はウソばかり、と嘆くなかれ。
この世界はウソばかりという訳でもなく、形ある事象が刻々と変化している世界であるのだから。

 

この世界は、本質が形となって現れている。見えないもの(本質)が、見えるもの(形) を作り、動かしている。
宇宙に充満するダークエネルギーとダークマターから重力が発生し、重力が星々を作り、銀河を作っている。
太陽の引力が地球を動かし、気圧の変化が風になり、草木を揺らし動かしている。
太陽と月の引力が、重力と共に地球上の潮の干満を動かし、世界中の海の波を作っている。
想いが、人を動かしている。
活動を起こしている根源(本質)は、形でないところ、眼に映らないところにある。

 

根源的なもの、変わることのない本質は、この世界に確かに存在しているが、見ることも、触ることも、言葉にすることもできないもの。
変化する流れの中にある中心のような、瞬間瞬間の一点にあるようなもの。
一瞬見えたように思っても、すぐに見えなくなって何処かへ行ってしまう。
だから、本質的なホントウのことは、世の中にはよく見えず、本質的ではないものがホントウであるかのように、世の中では当たり前になっていたりする。
本当の真実は、時に疎んじられたり、敬遠されたりもする。
「 そんなことを言って何になりますか ? 」 と、冷遇され、泥をかぶっていることがある。

 

形あるものが変わってゆくように、言葉によって語ることができるものは、いつの間にか変わってゆく。
だから、たった今、眼の前に起きていることの一つ一つは、ホントウのことであるかも知れないのだが、言葉にすると仮のものに変わり、触ると違うものになり、理解しようにも理解できないものになる。
もしもホントウの事を言葉にできるとしたら、それはあまり良く理解できない言葉になる。
「死」 や 「生」 という言葉は、その代表格で、考えれば考えるほどに、解らないものになってゆく。それから、「心」 なんていうのもそうだし、「愛」 という言葉や、「幸福」 もそうかも知れない。
いつも普遍的に存在していて、確かにあるように思えるものなのだが、雲のようにつかむことができない。( それらの言葉の真意というのは、形を取り払ってしまえば同じ意味に通じるものなのだろう。)

 

形あるものは、すべてが崩壊する。ゆえに、すべてが変わってゆく。
形を変え、気がつくといつの間にか消えて無くなっていたりする。
まるで本質に還ったかのように、何処かへ消えてしまう。
そして不思議なことに、無くなってから、その形にあった意味が解ってくることがある。

 


起きて、メシを食って、仕事をし、人と会話を交わし、遊び、笑い、時に泣き、そして眠る。
この生活というものの、どれがなくなってしまっても、人は生きてゆけないだろう。肉体は衰え、精神も病んでゆくだろう。
生きるということは、この上にある。
だが然しまた、この生活というものだけでは、生きてゆけないような気もする。肉体も精神とも健康的であっても、どこか、言うに云えない虚がある感じがする。
まるで昼間だけの人生のようではないか。
この生活というものだけでは生きてゆけない気がするのは、それだけでは、死んでゆけないと思うからだ。
この生活というものだけしかなかったら、恐らく死というものを畏怖し続け、拒み続けるだけだろう。
決定的絶対的にやってくる死というものから逃げ回り、自分という存在の尊厳を失いかねないような気がする。
やっぱり、人生が終わりに近づいたら、素直に受け入れるかのように静かに死にたいという願望がある。
そういう生き方が大切なように思える。
死んでゆける人生とは如何なるものであろうか。

 

京都の有名なお寺の館長さんで、九十いくつという年齢まで勤めておられたお坊さんが、「死ぬことなんて考えない」と言っていたそうです。 確かに、その方が健全だと思われます。「ナンデ、生きているのに死ぬことなんて考えねばならんのか。そんな勿体ないことをしたらアカン」と。
聞くところによると、長年修行を積んだお坊さんでも、いざ自分が死期を覚悟せねばならない時になると、乱れる人が少なくないとか。
いくらお坊さんでも、それが普通だと思います。それでは、「死ぬことなんて考えない」というのは、もしかしたら、もう死ぬことをさんざん考え、考えに考えて考え尽くしてしまった故の後に、ようやく辿り着いた心境から出た言葉かも知れない。というふうにも思われます。もう考えてみようとも思わないところまで行って、いっそ生死などどうでもよいという心境までになって、それこそ無心に今日一日を生きることに専念できる境地を得たのではないだろうか。

 

実際、死を考えても仕方のないことなのですが、だからといって、なかなか考えないこともできない。年齢を重ね、それが中盤を越えて終盤に近づくころになれば、心の隅に死の影が潜むようになるのは自然なことだと思います。死は、得体の知れない恐ろしいものでもあり、ものすごく大きな虚無でもあるように思われます。死は、すべてを失うことだからです。
100億円の財産を持っていたとしても、失わなければならない。100億円あれば、ものすごく嬉々とした人生を送れるのに、死には、まったく役立たない。例え財産があっても、財産がなくても、逆に借金が100億円あっても、死は平等にすべてを失なわせる力を持っている。
死はそれほどに、私たちの価値観を易々と木っ端微塵にしてしまう力で、私たちを威圧するのです。
だからやっぱり、考えても仕方のないことだから考えないようにしようと思っても、考えずにはいられないのだと思います。考えなくても済むようになるには、100億円でも、一兆円でも、ポイッと捨てられるような心境にならなくてはならない。最後には、持っているもので勝負ができないのです。勝負という前に、勝つことなどできない。負けではないにしても、すべてを奪われてしまうのです。もしも勝ちたいのなら、負け惜しみでなく、奪われてしまっても平気な顔で飄々としていることしかないのではないか。勝ち負けなど問題ではない、と達観して、超然としていることかも知れない。

 

人生が終わりに近づいても、自分という存在の尊厳を失うことなく、素直に受け入れるかのように静かに死にたいという願望がある。
健全な状態でその願望を果たすには、自から自分の中へ死を招き入れて、死を超える方便を考えるしかないのでは、と思えるのです。

 

 



あなたが他人から言われてイヤなことは、同じように、私(身体)もあなたに言われることがイヤなのです。
例えば、「情けない」とか、「どうせ駄目」 という、決めつけるように自分を否定してかかる言葉です。
そうすると、とても緊張するのです。緊張して、とてもイヤな気持ちにさせられるのです。
あなたにその緊張を解ってもらいたくて、伝えたくて、首や肩に緊張の力を入れたりするのです。
あなたは、そうやって私が入れた力を解こうとして、いろいろ体操したり、気を巡らしたりしているようですが、私がイヤな思いをしていることを理解しない限り、それは決してなくならないものです。
もっと良く、自分という人間を知って、いろいろと理解して欲しいのです。そして私を、つまり自分を、もう少し信頼して欲しいのです。
私は、あなたの一番身近な見方なのです。
あなたのことを誰よりも愛しているし、力になりたい、助けたい、という想いを持っていることを、わかってください。

 


身体は、あなたが生まれてからずっといっしょにいる同胞です。
あなたが忘れていることも、同胞はちゃんと憶えています。
あなたが身体の存在を忘れても、身体があなたの存在を忘れることはありません。
しかしだからといって、あまりにあなたがお構いなしにしていると、やがてはあなたに背を向けて離れて行ってしまいます。

 

 


                        ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。                         

 

0 ( ゼロ )も、ひとつの数字です。 1, 2, 3 ・・・ と無限に続く数の中で、ただひとつ、存在しないことを表しているのが、「0」 という数字です。存在しない、ということを表している、その非存在は、数学で証明されているものなのです。
数は普通、存在しているものを説明するのに用いるものです。物理学の証明は、数学の数式で表されます。
しかし、もしゼロという数字がなかったら、どうなるのでしょう  ?   足し算も引き算もままならなくなってしまう  ?  と考えると、存在しないものが、存在するものを多大に助けている証明をしているのが、数学であるとも言える。しかしまた、数学的な意味においては、「0」 は全く何もないという意味ではなくて,「0」 が付くだけ数が増えてゆくことを示しています。 10 から 10,000 。そして、 1,000,000 というように、本来何もないという意味の数字がこのような働きをしているのは、少し奇妙な気がします。

 

物体の運動の法則など、物の理を証明する物理学が発達したお陰で、飛行機や電車、クルマ、電話、照明、コンピューターなど、いろいろと便利なものが作られて来ました。本当に飛行機が空を飛ぶのは、空気抵抗や、気流の性質や、重さと速度との関係や、摩擦係数など、ありとあらゆる物理現象を数式を用いて確認した上で証明し、実験を重ねて試行錯誤の過程を経て実現したものです。その肝腎大本の数学の、その基本的なところに、「0」 のような奇妙なものが働いているというのは意外です。だからやはり本当は、ゼロというのは何も存在しないことを意味するものではなく、数学的にも、物理学的にも、実際的現実的にも、何か存在的な数字では表し切れないものを意味しているものではなかろうか、という気がしてくる。
「0」 という数字の表現にしても、円環で果てがない。それこそ無限を意味しているようで、そのゼロがふたつ結ばれると、或いは、ゼロを伸ばして捻るようにすると ∞ ( 無限大 ) という記号で表されますね。

 

実は私の整体も、ゼロを目指しているようなところがあるものです。身体の左右や、前後や、上下の関係を均等にするということは、お互いの関係の値をプラスマイナスゼロにするということです。そのプラスマイナスゼロに近いところにいくと、全体の働きが活発化してきて、何やら元気になってくる。失敗して悩んでいたことも、またやってやるさ、といった気力が湧いてくる。身体を構成する複雑な物質同士の協調性がどのようにして不思議な生命力を生み出すのか、わかりませんが、センターバランスが取れてプラスマイナスゼロの調和が取れてくると、まさしく、この 『0』 のように、一見存在しないものが存在するものを多大に助けるような力の働きを、私自身に於いて実感するのです。


                        ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

「 フェアほど楽なことはない 」

 

私たちが安定を求める時に必要なのは、フェアな関係であり、見方だと思います。
アンフェアな上下関係や上下感覚的見方をなくすことは出来ないけれど、それに圧迫されたら、出来る領域でフェアな関係を築いたり、まぁいいじゃないか的な見方・考え方が、安定をもたらす方法だと思うのです。

 

フェアな関係というのは、スゴク楽です。相手の欠点も自分の欠点も、お互い許せている訳ですから、言いたい事は言えてあまりストレスも溜らない。お互い様という関係だから楽な訳です。一方でこのような関係の世界がなくては、上下関係の世界で生きてゆく事は出来ないと思うのです。

 


「 円満な関係の構図  50 : 50 の意識改革 」

 

フェアな関係が楽だと言っても、会社内の上下関係は崩せないし、家族にしても、父親とタメ口をきけばケンカになりそうだし、弟や妹にタメ口をきかれたりするのはやはり釈然としないでしょう。しかし、問題は口の利き方ではなく、意識としてフェアな付き合い方をする、ということです。
学生ならともかく、社会に出て働いているのだったら、親であっても、大人と大人、個人対個人としての意識で接することが大切です。お互いを尊重したり、労わりを持つこともそこから生まれます。同じ人間で、時代社会を悩んだり傷ついたりして生きているのです。ましてや親子なら、似たような事で悩む場合もあるでしょう。

 

家族の場合、私たちは物心ついた頃から上下関係の中で生きることを強いられています。父親、母親、兄、姉などは、みんな頭上にいる感じです。上の言う事を聞くのが当たり前のようで、やりたい事や言いたい事が思うようにかないません。親が強い力を持っているほどに、子供は言いたい事を押さえつけられて、その力を自分の内に溜め込んでしまいます。力というものは不思議なもので、その場で発散できるとポジティブに働く力も、一度こもらせて溜め込んだ力は、どうもネガティブな傾向に向かいやすい。
「チクショウ」なんて思うと、どうしても憎しみや暴力に結びつきやすいようです。

 

まぁでも子供のうちは、それでも親がいなければ自分が生きてゆけないという意識がありますから、なんだかんだ言っても親の言う事に従うのが一般です。しかし、成長して中学生や高校生になった時に、もう自分の力で生きられることに気づき始めると、その上下関係が強すぎる環境に、とてもじゃないけどやっていられない、という強い反動の力が働きます。手近な親に反抗したり、社会に向けて反抗したりする。つまりこれらの行動は、窮屈な上下関係の世界から逃れて、フェアな関係を強く求めている意識の現れもあるでしょう。誰とでもタメ口で関係を持ちたがる。強い上下関係で育った者ほど、気持ちの上ではフェアな関係を求めているのとはまた別に、その反動の力によって今度は自分が上に立った上下関係で周りの人たちを支配したい欲求も強く持ち上がってくる。目には目を、力には力を、の意識の働きですね。

 

しかし、これらは純粋に自然の力の働きであって、それは人間が作った社会の不自然なほどの上下感覚の力に反抗して自らの自然性のバランスを取ろうとしているのかも知れない。 勉強ができる者ばかりが認められて、できない者が認められない。そんな了見の狭いところで人間を判断する大人や社会の構造にガマンがならなくなる。そういう人間の純粋な気持ちが強いが故に、一見トンデモナイと思うようなことをしてしまったりするのかな、とも思えます。

 

それほど、私たちが住んでいる社会は、上下の価値観がはびこり過ぎていて、いたる所に上下意識の強さが目立つ世界です。物心ついた頃から、もう競争の世界に置かれている。ホッとできる環境も時間も、日常的には少なすぎる。そして、みんな癒されたいと心の中で思っている。
人間が社会を発展させ営むにあたっては、上下の力関係が必要ですが、一方に上下関係を認めるならば、その対の存在としてもう一方に並行関係の世界…フェアな関係の世界も認めて維持していかなくては、人間も自然も壊れてしまいます。上下の長さと同じなくらいの左右並行の長さを保ち、円のような最も安定した構造を作らなくては、社会を営む秩序も保てないように思います。つまりそのバランスが、上下関係の世界を維持し、社会の安定を維持するために大切な要素なのではないか、などと考えます。

 

親は、もう子供が成長してきたら、一人の人格を持った人間として、そして新米の大人として、例え未熟であろうと認めることです。
 言いたい事に耳を傾ける。すぐに結論に急がない。言いたい事を表現するのに、子供は大人よりも時間がかかるのです。これを大人が待てないと、子供は話のコミュニケーションを諦め、放棄して、暴力や無視といった行動を取ってしまいやすくなる。
子は、自分が成長している自覚を持って親に堂々と発言する。理不尽と思われるところは進言する。
最初は勇気がいることです。でもそれをやらなくては対等になれないし、対等に近づかなければ大人にはなれません。親と子といっても、それは一番身近な人間関係です。親だって子供だったのだし、子供だって親になったり、いずれ親が老いれば面倒を見たりして、立場が逆転したりもするのです。逆転した時に、その世界が居心地の良い世界である為にも、フェアな関係を築いてゆくということは大切だと思うのです。

 

この世界は、常に流れています。そして、その流れのすべては、円の運動のように循環しています。
それは自然の創り出した流れで、上下と並行、縦軸と横軸が共存しなければ、円の運動は成り立たない。フェアなばかりでもいられない。上下ばかりでもいられない。人間が生きてゆく、難しいところですね。知恵が必要とされるところです。しかし、自然の流れの中で生きている以上、基本的に 50% の割合で、私たちはフェアな関係なのです。
人間には巡り合わせの宿命の違いはあっても、それはいつかは誰でも経験することですし、その時期の違いは一時的なものです。視野を大きく見たら、結構お互い様の事をしているのです。
相手が 50 なら、自分も 50 です。大きく見せる必要も、小さく見せる必要もないのです。(つづく)

 


                        ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

「この世界のバランス 人間は平等か?」


この世界は、あらゆる物事が“対”で成り立っています。光と闇、昼と夜、男と女、愛と憎しみ、出会いと別れ。どちらか一方がなくなってしまうと、もう一方もなくなってしまう仕組みになっています。
そしてこれらには本来的に、優先順位という要素がありません。等しく平等ということですよね。両方とも同等に必要なのです。
ただ我々は、闇より光の方が好ましいとか、別れよりも出会いの方が嬉しいだとか、感覚的に優先順位をつけてしまう。男の方が偉いとか、女の方が弱いだとか、とにかく優先をつけようとすることで争いが生じてしまいます。平等が崩れ、不平等に傾きます。そして、優先順位を認識してこの世界を生きてゆくと、必ず次々と問題が生じてゆくことになります。

 

それはなぜなのか?
物事に優先順位をつけるという不自然さが、この世界の平安を乱し、問題を生んでしまうからです。
乱れたものには、必ずその乱れを修復しようとする自然の力が働きます。ことごとく自然の産物にはそのような力が働いているもので、それは人間の身体にも意識にも働きかけています。

 


「アンフェアでアンバランスな関係」


何事もバランスが崩れると安定も崩れ、乱れが生じるものです。
現在、我々が生きてゆく中で一番求められているものは、安定という要素ではないでしょうか。現代のように不安定な時代、乱れた時代というのは、人々の身体も心も不安定になっています。そして、その力は個人のレベルを超え、社会のレベル、国のレベルにまで達しているのが現状です。
しかし、その社会を支えているのも、国を支えているのも個人の集合なのですから、個人の乱れの改革を行わない限り安定は望めそうにもありません。
でも改まって考えてみると、社会や国が乱れていることは理解できても、個人である自分自身が乱れているという感覚はあまりありませんよね。乱れている他人は想いついても、自分が乱れているなんて気がつかない。自分が乱れているなんて思っていたら、この社会でまともに生きてゆけそうにないですもんね。

 

しかしですねぇ、ご自身を振り返ってみてください。この世界のバランスの仕組みを考えて、物の見方・考え方・生き方において、優先順位をつけない生き方をしているでしょうか?自分と友達との関係を対等に置いていますか?
友達ならできそうだけれど、会社の中に入ったら難しい。そこは上下関係の世界であって、優先順位の世界であるわけです。会社でなくても、家族の中での上下の世界などもあり、我々はとかく上下の世界で生きていることになります。

 

そういう見方をすると、我々は誰しもがアンバランスな世界で生き、意識という表面では不安定な自覚がないにしても、心の底では常に不安定な状態と格闘しながら生きていることがわかると思います。
しかし、なんとかそれでも身体や心が壊れずに生きてゆけるうちはまだいいのですが、何事も限界というものがあり、優先順位の上下世界で生きることが苦しくなって、その許容を超えてしまうと、不安定さが増大し乱れや狂いという現象もはっきりと形になって表れてくるのです。(つづく)


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